■『だれであれ』
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、
だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」
(ルカ14:27)
キリスト・イエスについて行くなら、群衆の中にはいません。一人一人が喜ぶときにも、苦しむときにも、神の言葉によって生きることへと進むことになるからです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)
キリストは一人一人をよく知っておられます。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。」(ヨハネ10:3) 群衆の中に紛れていた一人一人が、自分に語りかけられた神の言葉を理解して、ついて行きます。「羊はその声を聞き分ける。」(ヨハネ10:3) そこにいるのは、群衆ではありません。人の間では、つまならい者であっても、神の御前では、確かな一人の人です。神の言葉が、キリスト・イエスについて行く人自身の中で、実を結び、収穫のときへと向かいます。その人の全人格を通してあらわされていく神への応答、神への愛です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(申命記6:4~5) それは、イエスが来られるずっと前から、教えられていたことでした。
どのようなことがあっても、キリスト・イエスがすべてを成し遂げます。そのような御方として、まず群衆に語られた言葉です。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」(14:2) ある意味で恐ろしい言葉です。しかし、「完全な愛(であるキリスト)は、恐れを締め出します。」(第一ヨハネ4:18)
「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、
だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」