■『義とされて』
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、
この人であって、あのファリサイ派の人ではない。
だれでも高ぶる者は低くされ、
へりくだる者は高められる。」 (ルカ18:14)
「義とされて家に帰った」人の心には同じ思いがあり続けたでしょう。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカ18:13) その心に、とにかく神の憐れみを求める信仰があります。神は、この信仰を義とされました。自分の罪を悲しむことは、神との交わりを妨げません。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18:13) 神は決してその心を侮ったり、軽んじたりなさいません。「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)
ファリサイ派の人は、神の憐れみを必要としていませんでした。むしろ、自己満足していました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」(ルカ18:11~12)
神の憐れみは、どこかに隠された宝のようなものです。宝を求めるように、神を求める者たちが知ります。そして、喜びます。「知恵を得ることは金にまさり、分別を得ることは銀よりも望ましい。」(箴言16:16)
「求める者には、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神」です。(ヤコブ1:5) その憐れみを受けて、すべての信仰者が、神と共に生きます。例外はありません。使徒も同様です。「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。」(第一テモテ1:13~17)
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」